35.本(その3)

 ものすごく読みたいが、どうしても読めない本がある。今から15年程度前に本屋で目にとまった本がある。表紙には馬の絵が描かれていた。ちょっと変わった本だなと思い、手に取りパラパラと立ち読みをしてみた。何となく気に入ったので購入した。読み始めたところ、面白くて二十数巻まで一気に読んだ。もちろん、出版されているものは全巻購入済みである。そんなある日、この本の作者が亡くなった。その後もしばらく読み続けていたが、本棚に残っている本を見ていると、もうこれ以上出版されることはないのだ、というさみしさが込み上げてきた。毎年の楽しみ(年に1冊ずつ出版されていた)が一つ消えてしまうのである。本棚には、29巻から43巻までが残っていた(2012年に44、45巻が出版された)。これを読んでしまうと、もう楽しみがなくなってしまう。そう思うとなんだか読むのがためらわれた。これほど楽しく読んだ小説も珍しい。小説は作家で読むことが多い。気に入れば、その作家の作品はすべて読む。司馬遼太郎や山崎豊子、遠藤周作はかなりの冊数であった。しかし、読み終えてしまうと、その作家が亡くなっていればもう次がないのである。このさみしさは次が見つかるまでかなり引きずる。

 これらの作品の日本語版タイトルはすべて2文字(30巻のみ別)である。これもインパクトがある。そしてそれらの作品の面白さは、推理小説ということもあるが元競馬の障害騎手という経歴にもある。競馬に関する用語や描写が頻繁に表れる。それと忘れてはならないのが訳者である。外国語で書かれたものは、独特の言い回しや表現があり、すんなりと入り込めないものが多い。しかし、これらの作品にはそれがまったくない。非常に読みやすい日本語で表現されている。それも気に入った大きな要素である。

 本棚に並んだこれらの本は、古いものは1996年の出版である。20年以上前である。わが家へ来てからも15年は経っている。その間、タイトルを見ては読みたくなる衝動をぐっと押さえてきた。第28巻を読んだのが小説を読んだ最後である。その後は小説を全く読んでいない。おそらくこれ以上の本に巡り合えそうにないから読まないのであろう。もし、残されたこれらを一気に読んでしまえばどうか? 喪失感で耐えきれなくなるかもしれない。そう思うと、これらに手をつけられない。このままいけば、これらを読むのは、おそらく余命3ヶ月を宣告されたあたりかもしれない。このころがちょうどいいように思う。3か月かけて17巻を読むのである。1冊、1冊、じっくりと楽しみながら、残された時間と残冊数を見比べて読み進めていく。ちょうど、鰻丼を食べるときと同じである。ご飯と鰻の量を見極めながら、きっちりと最後のひと口を食べるときのように。結構有意義で楽しい3か月になりそうである。これぞ人生! 最後の最後まで楽しみは取っておくことにしよう。しかし、読み終えても息絶えなければどうしたものか? やぶ医者を恨むか? それとも誤診を喜べばいいのか? いやいや、これもまた人生! 新たな楽しみを見つければいいというものである。

 締めが決まれば、あとはそこへ至る人生を適当に楽しく過ごせばいい。気楽な人生である。そうでなくては生きている価値がない。