52.時感

 「時感」、これは造語である。同じ1日であっても、時間帯によって時間に対する感覚が違うのである。平日の朝・夕のいわゆる通勤時間帯は、時間が非常に早く進んでいく。「早く」というよりは、スムースに進んでいくといった方がいいかもしれない。電車の乗り降りは整然と行われる。誰が指揮をするわけでもない。列車が駅に到着すると、降りる人は途切れることなく一斉に降り、その後すぐに人が乗り込む。見事なマスゲームを見ているような感覚を覚える。駅の売店で物を購入してもほとんど秒単位で作業が終わる。支払いをする側もお釣りを出す側もあっという間に作業を終了させてしまう。その早さの要因は、客が急いでいるということにある。そのため、店側も客に合わせるようにお釣りの出し方が非常に早い。歩くスピードも同様に速い。きょろきょろとわき見をしたり、立ち止まって方向を確認したり、おしゃべりをしながらのらりくらりと歩くようなことはほとんどない。目的地(会社、自宅)へ一直線に向かう。歩くスピードもかなり速い。見事なぐらいスムースに行列が進んで行く。これらを総合すると、時間というものを秒単位で感じ取ることができる。

 平日の朝・夕に比べると、昼の時間帯や休日というのはゆったりとしている。原因は同じく人にある。電車を降りても、改札口へ一直線に歩くということがない。ゆったりと歩き、エスカレータに到達すると右側に乗り(阪神間の場合)、歩くようなことはしない。したがって、この時間帯に限っては、エスカレータは半分の幅があれば十分である。スーパーマーケットで買い物をすると、時間のゆっくりとした流れをいやというほど感じさせられる。ほとんど全員がカートを押しながら、商品の前でしばらく立ち止まりじっくりと品定めをする。その間、人とカートが商品を遮り近づけない。ただじっと待つのみである。目的の商品を買おうと急ごうにも、通路の幅に比べてカートが多いために先へ進めない。やっと目的の商品を探し終えてレジへ。ここからが本当の勝負である。どの列に並ぶか? それによっては時間の長さにいらいらとさせられるからである。買い物の総計が提示されると、おもむろに財布を取り出し、まず千円札を必要枚数出す。ここまでは何ということはない。ただ、冬などは手がカサカサでうまく枚数をつかめない場合がある。このような時は指をぺろりとなめて、必要枚数をつまみ出す。ここまでは十分我慢の範囲である。問題はここからである。小銭入れと一体化した財布から百円玉を必要枚数選び出す作業が始まる。続いて十円玉を選び出す。この間に「フライパン返し」のような作業を数回混ぜ込む。この作業で下の方にあったコインを上へ持ってくるのである。ここまで来るとあとは一円玉である。1枚、2枚、3枚・・・、ここでまたも「フライパン返し」を数回繰り返すが、なかなか一円玉が上へあがってこない。さらに数回。周りを気にする様子は全くない。さらに数回。ここでやっとないことを理解する。おかしいな、というような顔をしながら、一円玉をすべて財布へ撤収。そして、またもフライパン返しをして十円玉を1枚出す。お釣りの1円玉数枚とレシート、ポイントカードを財布のそれぞれ所定の場所へ入れて、ようやくレジから離れる。ほとんどの人がこのような状態である。3、4人並んでいるのを見ると、もうそれだけで疲れてくる。それでも各列に並んでいる人の顔を見て、より早そうな列を選ぶ。選んだ列よりも隣の列が早かったときはガッカリである。「今日はついてない」程度のガッカリではない。「人を見る目がない」といった、今までに学んだことや経験したことを全否定されたようなガッカリ度である。平日の朝・夕と違って、この時間帯は分単位で時間を感じる。つまり60倍の違いがある。同じ時間であっても、感じ方にこれだけの差があるのである。

 対外的な活動は朝夕、個人的な創作活動は日中、ということにすれば60倍時間を有効に使えるということか? 完全にキャッシュレスになるまでは、「時感」の定義は変更無用のようである。