114.将棋

 「負けました」 勝負事で相手に対して絶対に口にできない言葉である。これをいとも簡単に口にする将棋や碁をすごいと思う。

 かつて職場で休憩時間に将棋をしたことがある。「飛車」「角」を落としても勝てない。自分では一生懸命考えているのであるが、全く予想もしない手を打たれる。「歩」を1枚取られるだけで、一気に攻め込まれてしまう。先を読むことの大事さはわかるが、すべてのパターンを読むことはできない。ましてやそれぞれに対して、さらにその先を読むことが必要なのであるが、そんな芸当はできっこない。3手先が読めれば、職場でのヘボ将棋は勝てる、と言われたがそれさえ読めない。まったく戦局にならないところを一生懸命読んでいるのであるからこれではどうにもならない。完全に能力の差がわかってしまうので「負けました」はしょうがないかもしれないが、なかなか認めることができない。もう少し考えれば違った結果が出たかもしれない、とつい考えてしまう。休憩時間の暇つぶしでさえ、相手より下になる「負けました」が言えないのである。言葉として出るのは「詰んだな」であって、「負けました」は出てこない。

 将棋ソフトがまったく棋士に勝てなかった時代がある。それほど将棋は複雑で知的な競技であると思われていた。それが今では逆転してしまった。棋士が将棋ソフトを活用して、いろいろと研究をしている。かつての悪手がそうではないこともあるという。人間では想像もできなかった手を打つこともあるらしい。

 将棋はもちろん勝負事ではあるから、勝ちを求めて読み進めるのであるが、同時に相手の心も読み続けているのだろうと思う。将棋ソフトには心は読めない。あくまでも現状を分析して最善手を打つ。このような世界では「負けました」はふさわしいかもしれない。考えうるすべてを出し切って負けたのであるから。しかし、人間と人間の戦いでは、相手の能力、性格を考慮し、現状の戦況からすればどのような手を打つのか、を考えた上での負けである。負けた事実は認めても、それを口に出して公言することには抵抗があるのではないだろうか。負けたという事実よりも、「読み間違えた」という気持ちの方が強いだろう。なんとなく力で負けたという気がしないのではないだろうか。

 小生のような小物にはこの「負けました」は悔しくて絶対に口にできない。往生際の悪い人間には、負けを認めるまで勝負は終わっていないのである。王手が来るたびに逃げる。さらに逃げる。持ち駒すべてを打ってでもまだ逃げる。もうどうにも逃げることが出来なくなる。まったくもってみっともない負け方である。ここでもまだ「負けました」はない。「あれっ、詰んだのかな?」で終わりである。相手もそれ以上を要求してこない。しかし、見る人が見れば、もっとはるか前に「負けました」が存在したのである。

 勝ち負けを争う勝負事において、相手に対して「負けました」といえるものはそれほど多くない。碁を含めて潔さの素晴らしさを感じる。