94.ブックカバー

 朝夕の通勤ラッシュ帯の電車に乗らなくなって久しい。最近ではたまに昼頃乗る程度である。座席がすべて乗客で埋まり、ドア近辺にわずかに人が立っている程度の混雑具合である。全員を一通り見渡すと、かつてと変わらない光景は携帯電話の利用率である。ほぼ9割程度の人が携帯電話をいじっている。いじっていない人は、よほどの高齢者か寝ている人である。それほどにまでして操作しなければならないことがあるのか、それとも暇ですることがないから操作しているのか? もうはるか昔のことではあるが、朝の通勤電車といえば、新聞を小さく折りたたみ、一生懸命記事を読んでいた姿が思い浮かぶ。今は全く見ることはなくなった。新聞という紙媒体が消えつつあるのか、それとも煩わしいのかはわからない。見かけないという事実だけははっきりとしている。そればかりか、文庫本を読んでいる人さえほとんど見かけない。文庫本は読んでいる題名で、思想信条まで見透かされているような気がしたものである。本にカバーを掛けずに読む勇気がなかった。それだけにカバーなしで読んでいる人を見かけると、本の題名と人物の姿かたちを見比べていろいろと想像するのが面白かった。気にせず読んでいる人を見かけることも多かった。それに比べると、ギャンブルの専門誌というのは気にする人が多かったように思う。スポーツ新聞のギャンブル欄を見る人はいても、専門誌を開いている人はほとんどいなかった。何か後ろめたいものを感じていたのだろう。順位をつけると本→新聞(一般紙)→スポーツ新聞→ギャンブル専門誌、ということになるだろうか。車中ではこのような過ごし方があったが、今ではみんながスマホを扱っているので楽しみがなくなってしまった。上記の順位に当てはめると、スマホはぶっちぎりの最上位ということになる。

 それほどまでに操作をしなければならないスマホとはいったいどのようなものなのだろうか。まったく理解も想像もできない。何が彼ら彼女らをそこまで夢中にさせているのだろうか。もし、操作しなければ何か災難が降りかかってくるのだろうか、それとも大きな損害を被るのであろうか。そんなに真剣な顔をして行うべきものは何なのだろうか。スマホでは、かつてのカバーなしの文庫本のように、相手の思想信条を想像することは不可能である。もし、それができれば、どのように状況が変化するだろうか。全く何の変化もないのか、それとも一斉に操作をやめてしまうのか。

 個人情報の漏洩、プライバシーの保護等、よく聞く表現である。しかし、今や、日常生活に必要不可欠となったスマホの電源が入っている間中、いろいろなアプリに位置情報を自ら提供している。それだけでも恐ろしいことではあるが、もし操作している内容のすべてが位置情報とともにアプリの提供会社へ送られているとしたらどうだろうか。

 文庫本の表題程度のはなしではなくなってくる。