80.スポーツ観戦(その2)

 箱根駅伝に続いてもう一つ気になるスポーツがある。サッカーである。ワールドカップでの一流選手のプレーには、ため息さえ出るようなすばらしいものがある。戦略、戦術を駆使し、それをプレイヤーが確実に実行する。その技の見事さ、速さはもうびっくりである。このようなサッカーは90分という時間の長さをまったく感じさせない。では、なぜサッカーが気になるスポーツに変わるのか? ここで問題にするのは次のような試合である。ちんたらちんたらパスを回し、ようやくゴール前まで行ったと思ったらバックパス。これでは絶対に点は取れない。勝ち試合で残り時間が少なく時間稼ぎをしているならともかく、今現在負けているのである。それにもかかわらず、ゴール前でバックパスをしている。シュートを打つ自信がないのであろう。ミスをすれば責められるから? ゴールに向けて蹴っているうちは点も取れるが、反対方向に蹴っているようでは点が取れるわけがない。あるいは、ドリブルでボールをキープしながら走っているときに、スライディングされると見事にこける。しかもスライディングの数メートル手前からこけ始める。今の時代、スローで何度でも再生できるのである。こんなみっともないことを平気でできる精神を疑う。これでフリーキックを得られればそれでいい、ということなのだろう。これを名付けて「一人吉本(新喜劇)」と呼んでいる。どうせやるなら、ベンチも含めて全員がこけるくらいの“演技”を見せてほしい。このプレーで点が入り、これが決勝点なんていうことになると、一体サッカーとは何ぞや、ということになる。肉体、精神、戦術、戦略、個人プレー、チームプレー、等よりもいかにうまくこけるかが勝敗を分けるスポーツということになる。真剣なプレーに引き込まれ、一生懸命見ていたものが一気に冷めてしまう。このようなプレーが、何のペナルティーも与えられずに行われる。これらをひっくるめて、サッカーというスポーツなのだと思えばいいのであろう。いや、スポーツというよりはショーとして楽しめばいいのかもしれない。そうなれば、勝敗がまったく無意味なものになり、ワールドカップなどというものが意味をなさなくなってしまう。試合前には子供と手をつないで競技場へ入ってくるわけであるから、その子供たちに見え透いた演技を見せてもらいたくはない。子どもを使うことでえげつない“演技”をカモフラージュしようとしているとしか思えない。

 色々な世界で、大人は子供の見本とならなければならない。子供はいつでもしっかりと大人を見ている。一生懸命勉強をする子供が、将来は医者になって人の命を救いたい、あるいは世界中の人の役に立つようなものを発見・発明したい、と思ってもその見本となる医者や学者が裏でこそこそと賄賂を受け取ったり、論文をコピペしていたらどうだろうか? スポーツも同じである。一流選手がやっているからやっていいんだ、では困るのである。これが認められているスポーツだからやってもいいんだ、では困るのである。確実に子どもは大人を見ている。そして真似をする。