15.麻婆豆腐

 麻婆豆腐の魅力は、何といってもあのしびれるような辛さにある。したがって、これを食べるには、いろいろと満たさなければならない条件というものがある。まず第1に、夏のうだるような暑さの昼食に食べること。第2に、運動をして十分に汗をかいておくこと。第3に、店内の冷房がギンギンに効いていること。第4に、ドライ仕様のシャツを着ていること。最後に、タオル地のちょっと大きめのハンカチを用意していること。これらがそろえば心置きなくおいしい麻婆豆腐を食べることができる。これらの中で最もクリアすることが難しい条件は、ギンギンに冷えた店内である。こればかりはこちらの意志ではどうにもならないからである。中途半端な店に入ると、食べることに集中できず、汗を拭くことばかりに気を取られてしまう。

 ギンギンに冷えた店内というのは尋常ではない。多くの店が温暖化防止を口実に空調費を節約しているが、そんなケチな店とは品格が違う。汗をだらだらと流しながら、今にも倒れそうになって店へ入ると、その瞬間に汗が止まる。数秒もかからない。厳密には、ドアを開けた瞬間に漏れ出す冷気で汗が止まる。そればかりか、すぐに汗が引いて跡形もなくなってしまう。低体温症の女性なら、数分で動けなくなってしまうだろう。熊なら勘違いをして冬眠を始めてしまうのではないかと思うぐらいの室温である。したがって、ドライ仕様ではなく綿100%のシャツでは、汗で濡れたシャツが体に張り付いて凍えてしまう。

 汗が引いたところで準備は完了である。おもむろに、麻婆豆腐セットを注文し、出てきたところでキンキンに冷えた瓶ビールをたのむ。2、3口麻婆豆腐を食べ、しびれるような辛さと旨味、コクを楽しみ、冷えたビールをごくっ、ごくっ、と飲む。この時の旨さ加減は、当日の気温としっかりとかいた汗の量に比例する。その余韻をしばらく楽しんだ後は、茶碗に入ったご飯を麻婆豆腐の皿の上にひっくり返す。あとはひたすらご飯の山を崩して、麻婆豆腐と混ぜながら食べる。食べ始めてしばらくすると、頭の中から汗が四方八方に流れ落ちる。食べている状況に合わせて、汗を下へ流す場合と、ハンカチで拭き取る場合に振り分ける。いくらタオル地でも、ハンカチではすべての汗を拭ききれない。一部はシャツに吸わせ、店内の冷気で乾かすのである。これだけ冷房が効いた店ですらこの汗である。これが温暖化防止協力店であれば大変なことになる。椅子の下に水たまりができるかもしれない。このようにして食べる麻婆豆腐は最高である。ここの麻婆豆腐を一度食べると病みつきになる。何度でも食べたくなる旨さである。これを前にすると、夏バテや食欲不振といったものは吹っ飛んでしまう。そして、まだ冷えが残っているビールをくいっと流し込む。最後は、ここまで使用せずに取り置いたおしぼりで、顔中の汗をしっかりと拭き取って完結である。体の芯は麻婆豆腐で熱々であるが、体の表面は冷気でキンキンに冷えている。これで数分間はうだるような暑さの中でも涼しい顔をしていられる。さっそうと歩く姿はちょい悪度30%増しである。

 残念なことに、この素晴らしい店が姿を消してしまった。もう二度とギンギンに冷えた店内と旨い麻婆豆腐がそろった店には出会えないだろう。食べることが最大の楽しみである人生から、麻婆豆腐という素晴らしいメニューが消えてしまった。