76.年相応

 歳を取ると若く見られたい、という願望が強くなるようだ。よくテレビのインタビューなどで、高齢の女性が歳を聞かれると「いくつに見えます?」とやっているのを見かける。どう見ても相当な後期高齢者であるが、聞かれた方は失礼にあたるとまずいので10~15歳若い年を言う。すると嬉しそうにニコニコしながら実年齢を言う。聞いた方は、「えぇー、全然そんな年には見えませんね。お若いですねー」と白々しく言う。お決まりのパターンである。「若い」というのと「若く見える」というのは全く別物である。ましてや、社交辞令で言うのは番外である。それでも若いといわれたいと思うのはいったいどうしてであろうか。

 若く見られて得をするようなことは一切ないと思うのだが、なぜこうも若く見られたいのか。どんなに頑張っても、細胞レベルでは年相応の劣化をしているはずである。記憶力や体力などは明らかに劣っているはずである。それらを評価されて喜ぶのであればまだしも、単なる外見だけで喜ぶところが不思議である。最も手っ取り早いのが服装である。若作りというやつである。年甲斐もなくミニスカートをはいている高齢者を見たことがあるが、これはかなり無理がある。化粧もそれなりに派手になるが、原型をすべて隠すわけにはいかない。所々垣間見える部分により一層の悲壮感が漂う。若いということを頂点に評価をするために生まれてきた弊害である。女性だけでなく、男性にも同じようなことが言える。これも先日見かけたものである。前期高齢者をそろそろ卒業し、後期高齢者へ足を突っ込もうかというような年齢の人である。若者と同じような破れたジーンズをはき、T-シャツに同じくジーンズ地のベスト、スニーカーである。若者であれば、流行りのファッションだから、破れたジーンズでも見逃すことはできる。しかし、後期高齢者がこれをはいていると、なんだかみすぼらしくてみっともなさが目立ってしまう。年金を何に使っているのか? と、問いただしたくなってくる。

 何でもかんでも若者の真似をすればいいというものではない。いくら服装や化粧を真似ても若返りはしない。みっともなさがより表面に押し出されてしまう。それよりも、背筋を伸ばして、さっそうと歩いた方が若く見える、というものである。

 無駄に年を取ってきたわけではない。人それぞれ、人生を精いっぱい生きてきたのである。それらは自然と顔に出るものである。悲観的な人は老け、楽観的な人は若く見られるかもしれない。しかし、それらはすべてその人の生きざまである。服装や化粧で若返っても、ただむなしく、みっともないだけである。顔は人生の生きざまである。若く見られようが老けて見られようが、生きてきた人生に自信を持てばいい。