55.山歩き(その3)

 相変わらず山歩きを続けている。ひたすら人が歩き固めた細い道を歩くのである。他でも書いたが、自然がすばらしいという感動はほとんどない。ただ無秩序に雑然と木々が存在している、といった感じでしかない。しかも、いたるところで倒木や立ち枯れの木々がある。自然というのはこんなにも無秩序なものなのか? もう少し整然と秩序だっているものだとばかり思っていた。写真や映像、あるいは遠く離れたところから山を見ていればそう感じるものである。しかし、実際にそこへ行き、中へ入ってみると、全く景色は一変する。

 わが家の近所に適度な高さの山々がある。どれも標高にして300~400mである。いずれも人の手が入っておらず、自然をそのまま体感できる。とはいっても、車が通れる程度の道は付いている。それと同時に、山中には多くの小道が設けられ、そこを歩くことも可能である。どちらの道を歩くかは、個人のその日の気分と体力次第である。

 一方の山は南に面した道を上っていくが、他方は北側の斜面を登っていく。同じ山であってもこれほど違うものかと思われるくらいの差がある。北側の斜面を上がっていく山は道中が薄暗い。曇った日は恐ろしいくらいの暗さになる。高木(針葉樹)が生い茂り、ほとんど光が入ってこない。晴天の日でも木漏れ日というものがほとんどない。夏であれば木陰になり涼しさを感じるところであるが、この程度の標高では気温は下界と変わらない上に、木が密集しすぎて風がない。恐ろしいくらいの蒸し暑さである。救われるのは直射日光が当たらないことくらいである。そんな道の両脇に、小学生(?)が植林をしたのであろう桜の木が植えられていた。100本近くが等間隔で植えられていたのであるが、見事にすべて枯れている。最初にこれを見た時は、疑問というよりは恐ろしさを感じた。人が関与して枯らせたのではないかと思ったからである。しかし、じっくりと考えてみれば、これほど光が入らないところで植物が育つはずがないのである。山に桜の木を植林すれば、数年後には立派な木になり、きれいな花を咲かせ、ここを歩く人の目を楽しませる、という発想であったのだろう。しかし、今はその桜の苗を支持していた木材とそこに吊るされたクラスと名前が書かれたプレートがぶら下がっているだけである。この山道の終着点にお寺がある。多くを期待してはいけないのはわかる。しかし、「ここにはトイレはありません」というプレートを見れば、二度目はないなという感じになってしまう。

 他方の山にもお寺がある。こちらは山から湧水を引き、恐ろしいくらい冷たい水(夏場でも15℃)を提供している。これだけでも来た甲斐がある。夏は手がしびれるくらい冷たく、一瞬で汗が引いてしまう。トイレにはバケツに水が汲み置きしてある。スタンプ手帳を販売しており、参拝と同時にここへ日付入りのスタンプを押す。ここでよく見かける人に聞いたところでは、よほどの大雨か台風でなければ毎日来るという。そして2リットル入りのペットボトル4本に水を汲んで持ち帰っていかれる。おそらく1000回を超えて参拝している人もおられると思われる。多くの人を引き付け、何度でも来たくなるような魅力を持っているのだろう。ほんのわずかな心遣いではあるが、それに惹かれるのだろうか? 信仰心、自然、健康、趣味・・・それぞれが持つ目的は違うだろうが、多くの人がひきつけられていることは事実である。スポーツクラブ(コロナで自粛中)代わりに数十回訪れた程度では、何を語っても想像の域を出ない。理由を知ろうとは思わないが、もうしばらく山歩きを続けることにしよう。