133.眼

 眼は小さいころからよくなかった。初めて眼鏡をかけたのは中学1年生の頃であった。くじ引きで席が後ろの方になると黒板が見えづらくなった。眼鏡をかけるのが嫌で(フレームの上が黒く下が透明なものしかなく、眼鏡の似合う・似合わないがはっきりとわかってしまうため)しばらくは我慢をしていた。やがて、どうにもならなくなり眼鏡を購入することになった。最初のうちは授業中のみであったが、いつのころからか掛けっぱなしになった。もうこうなると、外した状態では世界がぼやけて気分が滅入ってくるようになる。乱視が入っているのでないと余計に世界がぼやけてくる。

 そんな欠かせない眼鏡とも数十年付き合った(コンタクトレンズは相性が悪く全く使用できなかった)。若いころにはサングラスも掛けたい。しかし度が入っていないので、レンズを交換しなければならない。レイバンといえばサングラスで有名である。そのレンズに度を入れなければならない。しかし、高価なため国産の安いレンズで代用して使用していた。これをレイバンといえるのかどうか?

 歳とともに遠視がひどくなったため、近視が改善されたのかもしれない。毎年といっていいくらい老眼鏡の度が強くなってきた。ある時、近視がほとんど気にならなくなり、近視用の眼鏡が不要になった。掛けると余計に見にくくなってきた。そんな時、自動車免許証の更新の期限が迫ってきた。ものは試しと眼鏡なしで検査を受けたところ十分に見え、「眼鏡等」の指定が免許証から消えた。何か大きなものから解放されたような爽快感を味わったのを覚えている。しかし、習慣というのは恐ろしいものである。車に乗るたびに顔に手がいってしまう。必要がなくなってしまったにもかかわらず眼鏡の確認をしてしまうのである。

 今は老眼鏡が手放せない。自宅用、アトリエ用、外出用と3個必要である。いちいち掛けたり外したりが面倒である。おまけにどこへ置いたのかわからなくなってしまうこともある。そこで眼鏡用紐で首からつるすようにした。これはこれで慣れるまでが一苦労である。歯科医へ行った待ち時間に文庫本を読み、呼ばれて診察室へ入る。出てきて支払いまでの間にまた文庫本を読もうと思ったが老眼鏡がない。あわてて診察室へ駆け込み、老眼鏡がないことを伝え探してもらった。老眼鏡が首からぶら下がっていることに気が付いて急に恥ずかしくなった。鞄内をごそごそし、「ありました。どうもお騒がせしました」と詫びて急いで出た。おそらく首からぶら下がった老眼鏡に気づいていたものと思われるが、気を使って無視してくれた。

 最近になって、机の引き出しに当時のレイバンのサングラスのレンズが入っているのを見つけた。早速レンズを交換して掛けてみた。かなり老けたおやじではあるがそれなりの風格を感じる。これでやっと本物のレイバンを掛けることができるようになった。アメリカで購入してから50年がたっていた。