86.進化

 そろばんを習っていた時期がある。もちろん時代的には4つ玉である。非常にうまく考えらた計算機である。1~4までと5はランクが違う。そこから9までは1~4と同じことを繰り返す。ふとギリシャ数字を思い浮かべる。何となくよく似た感じを受ける。しかし、これ以上深く考えるつもりはない。そんな気がしただけである。なぜこのそろばん教室をやめたかの方が大事である。授業の終わりに暗算がある。そして答えて正解したものから帰ることができる。毎回最後まで残るのである。これが嫌でやめてしまった。このころから計算が苦手であったように思う。そんな嫌な思い出のあるそろばんであるが、脳トレには非常に有効であるらしい。

 先日、机の引き出しの隅っこに、ずぅ~と昔から場所を占領しているケースに手が伸びた。存在そのものにも関心がなくなるくらい長く存在している。なぜ手に取ったのか不思議である。今さら使えるわけでもなく、何か価値があるわけでもない。ましてや、メルカリで売ろうなどと思う気持ちは欠片もないのにである。かといって捨ててしまおうというわけでもない。とにかく見てみたかったのである。学生時代に使っていた計算尺である。計算尺といってもわかる人はそうそういないだろう。そろばんと同じく計算機であるが、さらにそのはるか上をいく計算機である。幅4cm、長さ30cmで、両面に12段の非常に細かく幅の違うメモリが刻まれている。この幅4cm程度のものは3等分されており、真ん中の列が左右にスライドするのである。これにも嫌な思い出がある。試験時、計算問題を解くために計算尺の持ち込みは可であった。しかし、使い方が非常に難しいのである。これを使っているうちに試験時間が終わってしまうのである。毎回のように計算式を書いただけで答えを書けなかった。そのころにカシオが、関数計算が可能な電卓を売り出した。計算尺の説明書を見ながらするような関数の計算が数秒でできるのである。時代の流れには逆らえず、試験でもこの画期的な計算機の持ち込みが可となった。しかし、学生にとっては高価な品物であったのですぐには購入できなかった。おかげで、その時の試験は“可”であった。電卓があれば間違いなく“優”を取れていただろう。そんな嫌な思い出の品もじっくりと見ると何となくいとおしくなってくる。樹脂できれいにコーティングされているが、材質は竹である。金属や樹脂では温度による収縮が大きいためである。数十年経った今も、目盛は上下裏表ともぴたりと合っている。スライド部分のがたもなく精度を保っている。

 いくら精度が高く高性能であっても使いこなせなければ価値がない。すべてのものが今後も生き残れるかそうでないかは、それらが生み出す価値とそれらを使いこなす労力の大きさにかかっている。とはいえ、世の中の機器やシステムはどんどん進化していく。しかし、旧態依然とした脳ではついていけない。わが脳も進化させる必要がある。

 進化させたいと思っている頭で、わが作品の数々を見つめてみた・・・。相当な労力を費やした割には、全く価値を生み出していないものが多い。芸術とはそういうものだと自分自身を説得する。これでは到底進化することはない? 

 

追記

計算尺を使って計算をしてみた。D尺の<2>にカーソルを合わせ、そこへ滑尺のCI尺を移動させ<3>に合わせる。その後カーソルを移動させC尺の基線にあわせると、D尺の値<6>が答えとなる。理屈は全くわからないが変に感動する。掛け算でさえこれだけややこしいのであるから、その他については言うまでもない。